
実は昨年あたりから、ずっとモヤモヤしています。
独立して3年。本を出せたり、自由大学やスクーなど、動画を教える機会もいただけたり
仲間(クライアントの担当者さん、ディレクター、カメラマンさんなど)に恵まれて
つくっている最中は苦しいけど、終わったあとに「良かった!!」と言い合える仕事ができてきたと思っています。
でもモヤモヤしているのは
この先、自分のやりたいことをどうやって実現していったらいいか、とか
そもそも、それがやりたいんだけ?といったことを考え、考え、いろんな人と話して
なかなか明確な方向性が見出せないから。
「自分のやりたいことをやるのが、いちばんパフォーマンスを発揮できるし楽しいはず」
ということを信じて独立して、その気持ちは今も変わってはいないのですが、
それはつまり、やりたいことを探し続けるということで、その日々に、少し飽きてきたのかもしれません。
誤解を生みそうなので正確にいうと「むりやり、やりたいことを捻出しようとする日々に、飽きてしまった」ということです。
世の中「やりたいことを仕事に!」「willを持った生き方を!」全盛。
それには大賛成なのですが、一方で、「やりたいことをやるためにやりたいことから探しているが見つからない」とか「いざ自分と向き合ってみたら自分に何もなくて、苦しいけどとりあえず発信だけはしてる」という人も見かけるようになって、その風潮に疑問を感じ始めてもいるのです。
やりたいことを実現することが楽しい生き方を生むはずが
やりたいことを探すことで苦しんでいる。
あれ?こんなに自分に無い物を探すことに苦しむために、この自分と向き合う作業をやるんだっけ?
と思うシーンが、自分や周りをみても多くなりました。
それって本末転倒なんじゃないか?
そんなことをぼんやり考えていたとき、友人がFacebookで書いていた言葉に目がとまりました。
「昨年は滅私でやってきました。今年も、あえて滅私で行こうとおもいます。それは
もっと周りのために自分が動いていきたい」
なるほど、と思ったのです。
自分がやりたいことがある人は突き進めばいいし、ないなら、無理に探すんじゃなくて
誰かの役に立ってみる。そこから始めればいいんだなと素直に納得できたというか。
人生にはいろんな時期があって、花を咲かせる時期もあれば、種が実り、土に落ち根をはる時期もある。
根を下へ下へと伸ばしている時期に、どんな花を咲かせるのかを明確に知ることはできないもの。
だったら、その時期は、自分じゃなくて、目を周りにうつして、隣に咲いている花に水をやったり、手助けをすればいい。
もっとシンプルでいいんじゃないかしら。
というのが、いまの気分なのです。
自分探しに疲れて、自己嫌悪になっているくらいなら、探すのをやめて、
家族や、友人や、仕事仲間や、気になる人のために、時間を使ってみるのもいいんじゃないでしょうか。
私もね、やめます、自分のやりたいこと探し。
探すもんじゃなくて、いつか芽がでるものだと思うから。
社会を見渡しても、私が尊敬する人は、あんまり「自分探し」をしているように見えないのです。表に出さないだけかもしれないですが。でも、自分がやりたいことをやるというより、「これをやらなければ」という使命感によって動かされているように思えるのです。そしてそんな人に対して、社会も多くの機会を提供するものなのかもしれません。
ということで。
今年前半は、意識的に”やりたいこと探し”から離れてみようと思います。